チャネリング画家として生きると決めたわけ(私の物語、前編)
「画家なんて食べていけない」が普通
「普通」を目指し続けた半生
私は、幼い頃から絵が大好きで、暇さえあれば絵ばかり描いていた。
オーギュストルノアールが大好きで、
幼稚園の卒業アルバムに女性のヌードまで描いていた。
セーラームーンが流行った頃は、セーラー戦士たちの絵を描きまくった。
楽しい日々だった。
父はいなかったけど、学校の友達と川や海や建設現場や、神社の裏、パチンコ屋の
倉庫に忍び込んで遊ぶような野ザルみたいな子供で、それなりに楽しかった。
帰り際に、道路の反対側にいる友達に「(魔法使い)サリーちゃん、この後5時から再放送だよ〜!」なんて大声で叫んで帰るくらい平和だった。
帰りすがら、近所のお琴の教室から綺麗な和音が聴こえて、潮の香りと、川の音がする水辺の町を歩いて帰っていた。小3までは。
だけど、母は私が絵を描くのを嫌がった。
「遊んでばっかいないで勉強しなさい。」
母は私を医者にしたかった。
小4になると受験が突然始まった。
「普通の暮らしを手に入れることがどれだけ大変なのか教えてあげる。」
そこで私は附属中学という国立の受験が必要な中学に行き、
地元の高校に入学した。
母の思惑では、私は高校3で理数学部に行き、医学部を受験する、という算段だった。
ところが、私は母の目を盗んでは
益々絵ばかり描いていた。
当時はCLAMPという作家集団の「x(エックス)」という世紀末物語にハマり、
その絵を愛し、描きまくっていた。
現実はまるで違うけど、もしかしたら絵で食べていけるかも。
そんな淡い期待は毎回母に見つかり、絵を捨てられて怒鳴られるという中で、
無理なんだ、あきらめなくちゃいけないんだ、と毎日泣いていた。
やりたいことをやっている人たちに憧れた
でも、高校1年のときに入部した演劇部の先輩たちが
私にいいものを見せてくれた。
その部活は、ほんの3年前までただの同好会で、5人くらいしかいなかった。
それなのに、2年目でいきなり演劇コンクールで入賞。
卒業となる3年目で、主催さんがバイト代と親や知人への借金60万を抱え、
高校生で市の1000人が入るホールをレンタルし、自作の演劇を上演。
(キダハナエさんという当時高校3年生で、早稲田の文学部に進学した人が書いた作品
で、ノアの箱船をオマージュしつつ、全然違う、社会からはみ出された人たちが夢を見つけていくまでの群像劇で、今でも、あれは傑作だと思っている。胸をつんざくような、熱量の、本当にいい作品だった。)
演者も音響、証明、広報スタッフ全員高校1年から3年の19名ほどで作り上げた。
私は俳優の代役として一緒に台本を覚え、通し稽古に参加する傍、
ポスターやちらしを製作し、地元ラジオ局
に出て宣伝し、広報もしていた。
結果、800人を動員し投げ銭で収益を得て、ほとんどの借金がそれで返せた。
私はその現場にいて、宣伝活動を手伝った。
そして思った。舞台芸術に携わるなら、仕事として絵をかけるかもしれないと。
勇気をだして、地道に母への説得のチャンスをうかがった。
バイトを禁止され、自由なお金がなく、絵を習うことはできなかったけど、
美術の先生に相談し、美大の募集要項も取り寄せて、デッサンの練習もした。
その一方で勉強にも励んだ。
英語が好きだったので、スピーチコンテストに出たり、英検1級を目指し、当時は英検準1級取得のための勉強もしていた。
毎日寝不足で、だけど夢のためなら、きっと頑張れる、親を説得できると信じていた。
親には、勉強の成果を見せた上で、自分の本当の望みは絵で生活することなんだ、と
告げる算段だったからだ。
でも、現実はそんなに甘くなかった。
親の勤め先が破綻、面倒を見ていてくれた祖父母の手術・入院・介護費用で家計は火の車
私の母を説得する算段は途中でバレた。
美大の募集要項が見つかったこと、成績悪化。とくに数学、化学、生物がやばかった。
そこへ母の勤務先の病院経営が悪化、職場の男性からいじめもあったそうで、母自身も精神障害をかかえ、私も母に暴力を受けていたので手首に切り傷があり、お互いまともなもの同士ではなかったのもあるが、とにかく、説得どころではなくなった。
着る服も買えないくせに、塾と英会話教室に通わされ、私はとにもかくにも、母になにかしらの手土産を用意しなくてならなかった。
母に子育てが終わったという安心感、一人で生きていける成果を早く用意しなければならなかった。
「毎日食べるものがあって、着る服があって、住める家があることが幸せで、その普通を用意するのが大変なんだ。夢なんかみるんじゃない。」
たしかにそうなのかもしれない。
でも、こころは今にも張り裂けそうで、
「こんな世界はいやだ。衣食住のために生きる人生なんかクソつまらん。
そんなもの、無意味だ。生きることがまるで奴隷じゃないか。私たちは奴隷になるために生まれたのか。命ってなんだ?なんで、私は生まれてきた?こんな親の人生を縛る重しとしての価値しかないなんて嫌だ。もう死のう。」
そう思って毎日死に場所や死ぬ方法を考えていた。
高2の時、高3の先輩が川で自殺した。真冬だった。
私が死にたくても、死ねなくて、手首に相変わらず根性焼きならぬ、根性カッター傷をつくっていた頃、1つ上の先輩が有名大学のAO入試に落ちたことを苦にして自殺してしまった。成績優秀で、名の知れた子だった。
「え?まだ本試験受験で、筆記で受かる可能性もあるのに?」
「親に許してもらえないから、って、どういうこと?」
と、本当に衝撃的だった。
その頃、まだ、自分の親には、親としての愛があると信じていた。
親は100%いい人で、悪いのは「普通じゃいられない私」だと思っていた。
でも、世の中には、親に面目たたないからと死ぬ女の子がいるのだ。
そういえば、小3のときも、同級生の男の子がお母さんに無理心中で首を切られて、死んでしまっていた。
記憶にとどめていなかただけで、けっこう身近にそういう事実はあったのに、なぜか自分の親はそういう人ではないと盲目に信じていた。
その時、生きること、死ぬことを随分考えた。
「くそ!先越された!私が悲劇のヒロインになるはずだったのに。」
「親のせいで死ぬ娘の話を、母はどう思うのだろう。懲らしめる材料にしたいな。」
「入試に落ちる健全な体をもった娘が利用価値がないなら、
そもそも、障害者として私が生まれてきてたら、あの人(実母)は私を殺しただろうか?」
1年後、私も志望校に落ちたが、死亡はしなかった。
ただ、文系に進みたいと主張し、人前で取っ組み合いのけんかをした。
殴られっぱなしの、親の言うことをきくだけの臆病な人形が、右の頬を殴られたら、左の頬を差し出し、
「やるじゃねーか!ほら、そんなに殴りたけりゃこっちも殴りやがれ!なんなら、これで殺してみろ!」
と、包丁を差し出す猟奇的な女子になっていた。
やけくそだった。
母に愛されていない、と自覚するのは怖かったし、どうやらすぐには死ねないみたいだから、孤独の中だとしても、親に飼い殺しされなきゃお腹が減る。お腹が減るのはいやだった。
絵を描かないと決めた。私みたいな子供を作らない、普通の家庭をつくって、幸せになる。そのために力のある男性と結婚する。
大学は滑り止めの地元の大学に進学した。
そこで法律を学び、法律に従事できる職種につくつもりだった。
「親のために」がまだあった。
親に、「ひどい娘」のレッテルを貼られるのが怖かったから。
親のことは大嫌いでも、まだ世間に嫌われたくはなかった。
金になりそうな職種につきたかった。
法律関係なら、体裁もよさそうだったから、そうしようと思った。
大学にはレッセパッセの服を着た、髪の毛をカールしたかわいい女の子がいっぱいいた。
手首から肘にかけて無数の根性カッター傷があった私はホテルのバイトを斡旋してもらったけど、傷を見られて恥ずかしくなり、行くのが怖くて遅刻をした。
そしてバイトをクビになった。
働けないので、奨学金を申請して食いつないだ。
外へ出ようとすると涙が溢れるので、数回手首切り、根性いれてから外出した。
しかし、いよいよ母の勤め先が倒産。
母は私がまだ大学3年のときに無職になってしまった。
母はこのときのことをずっと前から予想していたに違いないと思った。
だから、きびしかったのは仕方がないと思った。
手首をきるのはやめた。就職しなきゃ、と思ったから。
あと、涙で外出できなくなることを真剣になおそうと心療内科を受診した。
薬とカウンセリング。そして母にも、精神科に通ってもらい、二人でなおそうとした。
だけど、全くよくならなかった。
仕事につけなきゃ未来はなかった。
何軒か病院を変え、薬をかえ、最後にさくらまちハートケアクリニックという病院で母に付き添い懇願し、一緒に受け、そこで先生に「お母さんと離れなさい。」と言われたことを母に告げ、母がショックを受けたが、しかし、やっと母がそれを受け入れた。
私は先生のお墨付きを得て、ようやく母のために何かする、を手放すことが許せた。
そして元気になった。
いままでの苦しさの反動から怒りのエネルギーがたくさんでて、猛烈に就職活動をした。順調に内定をとり、卒論を書き上げ、バイトをしまくった。
朝も夜も稼いで、大学と教習所の学費を払い、車の免許をとった。
母の元をさり、下宿をみつけ、家賃もはらった。
そんな時、いまの主人に出会った。
彼はぐいぐい引っ張って行くし、周りの評判も良く、なにより私好みの頭のいい人だ。
予想通りの力のある男性だ。
それに細かいことを気にせず、実力主義で正論を通す、非情な男性だ。
出世する、と思った。自慢じゃないけど、いい男だ。
私のことを母から守った。私の恐れをよく理解し、何が不快か、何が傷つく言葉か、私よりも私を理解していた。そして母のことをも、理解してくれてた。
出会ってから今に至るまで、ずっと彼は私と母の間でバランスを作ってくれている。
そういうところが、歴代の彼氏と一線を画す、彼に決めた一番の理由だった。
彼以外、誰も及ばなかったし、彼以外はありえない、私にとって運命の人だ。
いよいよ普通を手に入れる、子宝に恵まれ、順風満帆。幸せで満足の日々。この上ない満足の連続。最高の人生。
彼は院生だったので、私が1年先に就職した。
私は証券会社に勤めていた。法律関係と予想していたけど満足な就職先だった。
相変わらす、私は悲劇や、苦労や、努力、が好きで、満身創痍な状況だった。
結婚して、出産して、また復帰して仕事をしていた。血尿がでちゃうくらい、頑張った。
体をこわすのが常で、健康な時はなかった。
だけど、証券外務員1種 、Ⅱ種をとった。これは国家資格だ。
これが取れたので、複雑な金融工学をあつかったマニアックな商品も売れるようになった。上司や、先輩や同僚も証券マンなら全員もってる資格だけど、私はマニアックなものを売るのが大好きだった。
誰もがもってるありふれた商品じゃなく、これはオーダーメイドのあなたのためだけに作った商品です、と100%言えるものだったから、付加価値がつき、特に他社からの乗り換えによる新規開拓が得意だった。 だって他社ではみたことない商品だったから。私の話は聞くだけで面白かったのだ。
商品の特性上、自然と法人営業の知識もついた。
すると個人客も法人客も開拓するので私もお客様も得をする。予測するニーズの幅が広がり、知識の引き出しが格段に増えた。当然、普段の何気ない挨拶程度の会話に厚みが出る。すると、信頼が増す。
自慢じゃないけれど、私が自分で開拓したお客様はとても素敵なお客様ばかりだった。
お金持ちで、優しくて、素直で、皆さま尊敬できる素晴らしい人格者だった。当然、その周りにいる人たちもみんな人格者だった。
私が彼らを尊敬し、愛してた一番の理由はしかし、他にあった。
それは、全員「断ることを悪としていないこと」。
彼らには自分を大事にする決意が常にあった。決して流されない。
断る理由を必ず言葉にして説明してくれていた。
だから、行くたんびに私の営業力は向上するし、内容も精査されていった。
彼らのニーズを私は理解できた。
そして、そのときが訪れた。
東日本大震災、株価暴落。絶好の買い場到来。
そのとき、お腹には二人目の子供がいた。
時短勤務で、4時には退社。営業時間は少なかった。
当然、みんなみたいに働けない。かといって、仕事はやり遂げなくてはならなかった。
効率化を必死に考えた。費用対効果を徹底的に考えた。
1分も無駄にせず、仕事した。仕事の鬼だった。
ゆっくりランチなんかしたことなかった。
株価暴落は、しっかりとした資産形成をされている本物のお金持ちには絶好の買い場だ。
私は長年の努力で本物のお金持ちの方と信頼を築いていた。
だから大口取引の話が2件同時に向こうからきたのは、まぎれもなく、自分の努力が認められた瞬間だった。人生の、あれは間違いなくハイライト。
それでも、体は子供のものになってた。余裕はなかった。
ミスして上司にたくさんおこられたし、先輩にひとことありがとうが言えなくて、わざわざ内線電話で苦言刺されたし、泣いてばかりだった。
勉強は毎日してた。深夜と早朝、電車の中で。家にいる時は家事育児だ。
私はこの仕事を絶対にやめたくない、と思っていたから。
自分で開拓したお客様に恩義を感じてたし、また戻るつもりでいたから、必死だった。
だけど、お客様と電話していて、自分の耳に違和感を感じた。
突発性難聴だった。
実際には、めまいや吐き気もあったけど、病院の先生にみてもらうときはそれがなかったから、その診断だった。
妊娠中で、薬は使えなかった。
出産まで放っておくしかなかった。もしかしたら、聴力が回復することはないかもしれないと言われて、ショックだった。
会社の中で一番名誉のある、社長賞にノミネートされた。
地方の小さな支店の、なんの役職にもついてない、平社員の、妊婦に、本社の常務から感謝の内線電話が入っていた。
1分も無駄にせず、常に働いていたから、私はいなかった。
でも、私のデスクに黄色い付箋で常務のメッセージが貼られていて、嬉しくて泣いた。
株価暴落で誰もが疲弊しきっている中で、ダントツのトップだった。
入社した時、いつかこの賞をとれるくらいすごい営業マンになると夢見ていたことを思い出した。このとき扱っていた商品も、もしかしたらいちども売らずに一生を終えるかもしれないと思っていた奇跡の商品だった。でも、間違いなく、お客様にも会社にもwin×winの商品だった。
でも、妊婦のままその年、産休に入ったから、その後賞はもらえていない。
産後、ひどい吐き気と頭痛で一歩も動けなかった。
体が弱り続け、だんなと仕事に復帰するしないで毎日のように大げんかして、
1年後、泣く泣くやめてしまった。
普通のなんの取り柄もない、良き妻、良き母として、子供達と向き合う日々をその後過ごした。〜の細川さんではなくなってしまった。
苦労した受験とか、死んだ祖父母とか、大学のこととか、奨学金とか、いままで私を支えてくれたひとたちとかが思い出されて、ただ、ただ、なさけなかった。無力感でいっぱいで、女なんかに生まれて来なければよかったとさえ思ったし、女に教育なんて、バカなんじゃないか、と思っていた。女は子供を産む道具。苦労したって、なんの役にたつだろうって。
私は自分の性に腹が立っていた。
そして、女だから母も辛かったんだ、とようやくわかった。女の身体はイベントが多い。常に病気がち。毎月、血を搾り取られ、精神は不安定になりやすい。それなのに、社長賞にノミネートされてた私はどんだけすごかったか。
母もそうだった。
体調の変化もあるだろうし、よく腰が痛いと寝込んでいた。だけど、平社員が一丁前に論文を書いて、学会に出てた。大学も放送大学で学位を取得した。だからこそ、妬まれて職場の男性からいじめに遭っていた。
暴力であざを作って帰っきてた。
だから私も殴られたんだろう。
はぁ、嫌だ、嫌だ。
今思い出しても、なんて馬鹿馬鹿しい。
しかし、この負の連鎖は気づかなければ永遠と続く。
私は母のようにはならないと、あれほど誓ったにもかかわらず、間違いを犯す。